能力不足に向き合う感情の記録

自分より圧倒的に能力がある人を目の前にして、それに対して悔しくなったり苦しくなったりすることはこれまでに少なからず経験してきた。
けれど、それに対する感情が学生だった頃の自分と社会人2年目である自分とで異なっている気がして、それが気持ち悪くてこうして文章を書くことにした。

これは本来他人に見せるべきものではないかもしれないけれど、僕は僕の書いたものを誰かに読んでもらいたいとかそういう石を持っているわけじゃなく、ただ自分が真面目に文章を書いている場所なんてそんなにないからここに書くことにした。
他人に見せるべきじゃないと思っているし、あまり見てほしいとも思っていないから文調も淡々と進めようと思う。


目次

今の振り返り

端的に言えば、今関わっているプロジェクトメンバー全員に比較して理解力が足りない用に感じている。
ある事柄について議論していて、自分がそれに納得できずに異論を唱えた。
僕がそれに対しての認識を改めないとプロジェクト自体が進まないと判断したのか、それに対してMTGを設定してくれた。

僕のそこでの仕事はデザイナーだ(結局デザイナーとして活動していて、たまにフロントエンドエンジニアもやる、趣味ではバックエンド〜インフラまで触るというのが僕の現状である)。

デザイナーに求められるものは数あれど、この場における「理解力」とは「それを必要とする人(ユーザー)を想像する能力」だった。
デザイナーという仕事は中々に矛盾していて、自分以外のだれかがどう感じ考え行動したいかを考える「他人の想像」を強いられる(この矛盾とそれに対する自分の考えは今度まとめても良いかもしれない、この役割に文句があるわけではない)。
今回の話に戻すと、この他人の想像が誰よりもできていないということが問題だった。

この記事は問題の振り返りではなく自分と他人の能力差と自分の感情について語ろうと思って書いている。
ので、ここはだいぶ端折る。

その後、「そもそもそれは必要なのか」という問いかけ――異論を唱え、先輩のデザイナーの方も交えてMTGした。
結果、自分以外の人は議題についてある程度の納得や次へのビジョンを掴み、僕はそれについていけなかった。

このときの僕の感情は、悔しいであり、苦しいであり、辛いだった。
気にすべきは、そこに「この人(指摘をくれたデザイナーの方)の能力に追いついてやる」という感情がなかったことだと思う。

大学生時代の振り返り

学生の頃にも似たようなことがあった。
教授からある先輩と一緒にものづくりを依頼された時の話だ。

僕は軽い気持ちでその依頼を受けたが、当初思っていた作業とは少し違う作業を強いられる。
その中で「それでもこれくらいは」と当初思っていた作業に手を付けかけたが、先輩がそんな物を目にしないくらい素晴らしい成果を持ってきてすべてそれに置き換わった。

これだけ書けばすごくひどい話なんだが、先輩の成果は本当に素晴らしく文句の付け所はなかった。
だから、ここでも悔しく苦しく辛かったけれど、それに合わせて自分の作業(もちろん当初思っていたものとは全く違う)を行った。

けれど、この経験は僕にとっての起爆剤になった。
その先輩がしていた作業について、勉強するようになった。
その先輩はその分野について当時在籍する同じ領域の学生の中では間違いなく一番の能力を持っていたが、自分は先輩と同い年になるまでにそれを超えることを目標に色々学んだ。
結果、達成できたと思う。

さて、もう一度だ。
気にすべきは、今の自分に「この人(指摘をくれたデザイナーの方)の能力に追いついてやる」という感情がなかったことだと思う。

比較

自分の環境も対象とする相手も全然違う。

特に対象とする相手は、学生時代は2歳差だったが今は10以上の差がある。
まるで別格、なのだった。
その別格についていけなかった、ということを悔しがるのは些か失礼な気もするけれど、それがないと原動力が無い。
僕は恐怖に生かされている、けれどそれを恐怖と感じられなくなっている?

自分の環境は、正直全く異なる。
学生の頃は死ぬ気で活動していたけれど、今は割と好き勝手に活動している。
けれど、これを問題視しても始まらない。
じゃあ、何を比較すれば良いんだろう。

社会人になって、少なからず「キャリア」という単語を聞くようになった。
経験、それによって蓄積される知識と知見。
ただ本を読むだけでは得られないような、状況に紐付いた学び。
それらが能力に強く紐付いていて、それが社会人としての評価に紐付いている。

そう考えると、経験年数が足りない自分が能力不足であることは当たり前なのか?と納得できる可能性は見える。
実際、学生時代の自分もその可能性は見えていた。
けれど、学生時代の自分は納得しなかった。
むしろ反発していた。
彼にできるなら、自分にもできるようになるはずだ、と考えていた。

今の自分も、納得はしていない。
だから悔しい(悔しいとすら思えなくなったら僕は終わるんだろうな)。
けれど、今はそれについて反発するより凹むことのほうが多くなったように感じる。
学生当時も凹んではいたが、それでも反発もした。
これから僕は、反発できるだろうか。

経験年数の差は言い訳にしてしまうと話が進まない。
だから、結局今の自分にできるのは比較ではなく自分のミスの振り返りだろうとは思う。
今回は特にミスだらけで、本当に酷い。

正直、僕は今明日が怖い。
今日の終わりに、今回の件への僕なりのアプローチをプロジェクトメンバーに投げた。
明日どういった反応を返されるかわからない――指摘をくれたデザイナーの方は優しいのである程度前向きな言葉をくれるかもしれないが、僕にとってはそれは気持ちのいいものではない。

それに、今回のこの納涼不足への痛感の1つの要因は、「想像する力」がどうすれば成長するのかが自分の中で見えないことだ。
アプローチの1つは今回ひとつ学んだ――普遍的かもしれないが、けれど、それが画期的なものには感じない。
それこそ、経験を積むしか無いと言われても、それのためだけに時間を使えるほど僕はやりたいことが少なくない。

……学びがなかったわけではないことを喜ぶべきなのかもしれない。
ただ、1つの学びを次の機会に活かしきれる自信はない。
僕はそういった学びの転用が苦手で、忘れがちで、不器用だ。
それを人は無能と呼ぶのかもしれない。
嫌だな。

おわり

そういうわけで、書いてみると本当に酷いものになった。
ただまあ、書いてみること自体は悪いことじゃない。
いろいろなことが整理できたし、思い出せた。

あまりやることはないだろうけれど、たまには悪くないのかも。
今日は寝よう、もう遅い。